手本は習う側にとっては絶対的存在であり、手本に限りなく近づけることを旨とする
その結果全く同一のものが書けたとしても それ以上のものは生まれるべくもない。
ということは たとえ習う側の資質が師のそれよりも上であろうと、
師を越えることは不可能という宿命をもつ。
師と弟子との間に手本がある限りは、弟子に対し絶対的優位を誇示しうるのである。
昭和37年のある日、今でも忘れない。「先生はあの子にいつもいい手本をわたしているから、展覧会に出品してもいつもいい賞をとっている」との生徒の声を耳にして愕然とした。そんなことはしていないと怒るより、手本によってそんな結果が出ることを思い知らされたことで何か胸の内がすーーっとした。
先生だって40枚も50枚も手本を書けばいいのも悪いのもできよう。
先生の思いを、この年になると、よくわかる
音楽ならば、CDコピーだ、
ようは耳コピ
JポップにYouTube
バッハの時代ならば音源はないので、
楽譜と生演奏しかなかったし
楽譜をなめるように書き写し、同じ筆跡になるまで、修行したが、
まあ、、それは古すぎ
まねができる技術がなかなかない
そこまでもいかない生徒ばっかで、とほほと思う先生ばかりだ
それでも本物の芸術家を育てるには
ここは押さえておかんといかんね
空気振動の芸術
聴覚芸術
時間芸術の音楽で、
書ではないといえど同じことだ
ちゃんとやりますよ、先生!
昨今の生徒は まねっこもできないが
ちゃんと、指導するよ
内面の成長を獲得せんがため
やりますよ
できるだけ・・・
時代も悪いといっても
とほほ
できるかな・・・